フォスターの生涯とその歌曲 その1 (誕生から18歳まで)

本サイトは、世界でもっとも多くの人々に歌われる歌をつくったといわれる、アメリカの作曲家、スティーブン・コリンズ・フォスター(1826年〜1864年)をまとめたサイトです。

このページは、フォスターについて、その生涯と主な歌曲について解説しています。
フォスターの37年間の生涯をサウンドを開きながらたどることができます。

19世紀はじめのアメリカ合衆国

フォスターの生まれたころのアメリカは、どんな時代だったのでしょうか。この時、北アメリカ東海岸に広がるイギリスの13の植民地と本国イギリスとの間で戦争が起こり、植民地がイギリスから独立し、アメリカ合衆国が誕生します。

1776年7月4日に独立宣言が発せられ、アメリカは、この後、領土を拡大し、西部開拓を進めていきました。

西部開拓

開拓は、まず、アパラチア山脈を越え、中央平原に、そして、そこを流れるミシシッピ川に沿った地域で、多くの人々により進められました。

その後、開拓は太平洋岸に向かい、ルイジアナ・テキサス・オレゴン・カリフォルニアと19世紀の半ばまでに、現在のアメリカ合衆国のほとんどの地域の開拓を完了します。

彼らは、乾燥地域の厳しい気候、そして、アメリカインディアンと戦いながら開拓を進めました。このころの開拓者魂のことを「フロンティアスピリット」といいます。

フォスターの歌は、この西部開拓の時代に生まれ、広まっていきました。

苦しい開拓の中、誰もが歌えるフォスターの歌は、多くの人々に愛唱されました。フォスターのメロディーは、西部開拓時代の人々の心を癒すものだったのです。

もう一つ、このころのアメリカのことを知っておく必要があります。それは、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が使われていた時代であったということです。

19世紀中ごろまでに、中・南アフリカから、千数百万の黒人奴隷がアメリカ大陸などに送られたといいます。

この背景には、欧米における産業革命の進展があります。

フォスターは、ミンストレルショー(後述)のための歌曲をたくさん作りました。ミンストレルショーで歌われる歌は黒人奴隷を題材にしたものだったのです。

フォスターの歌曲は、この黒人奴隷と大きくかかわっています。

独立記念の日、フォスター誕生

アメリカ地図

フォスターは、アメリカ独立のちょうど50年後の1826年7月4日に、ペンシルバニアのピッツバーグで生まれました。

7月4日は、独立記念日にあたります。フォスターは、独立記念祝賀行事の真っ最中に誕生したのです。

フォスターの父親のウィリアム・フォスターは、事業家で、フォスターは、何不自由なく、幸せな生活を送ることになります。
母親は、エリーザ・フォスターといいます。フォスターは、9番目の子どもでした。

フォスター家では、シャロットをはじめとする音楽好きな姉たちがフォスターに音楽を教えました。

2歳でギターにさわり、姉のピアノにも触れることができました。
この時代にピアノがある家など、ほとんどありません。フォスターは、見様見まねでピアノを弾いています。

しかし、フォスターが6歳の時、父ウィリアムが事業に失敗し、彼は、生まれ故郷のピッツバーグを離れなければなりませんでした。ピアノもギターもなくなってしまいます。

こんな経済状況でしたが、フォスターは、母親からフルートを与えられます。
この楽器がフォスターの宝物となり、彼の音楽の心を育てていくことになりました。

そして、フォスターは、「ミンストレルショー」に出会うことになります。
ミンストレルショーとは、白人が顔を黒く塗り、黒人のかっこうをして演じる芝居のことで、アメリカ各地で流行していました。

フォスターは仲間の少年たちとミンストレルショー子ども版の劇団をつくり、近所の小屋で演じました。

少年たちのミスントレルショーは、大人たちうけ、フォスターは町の人気者になりました。
フルートが得意なフォスターは、ミンストレルショーの主役だったのです。

フォスターは、学校に入学します。しかし、父の仕事がうまくいかず、学校を転々としてなければなりませんでした。

そして、フォスターは、兄の下宿に同居しながら、トワンダという町の学校に入学します。しかし、音楽が頭から離れず、なかなか学業に専念することができません。
結局、父のもとに戻ることになりました。

音楽好きのフォスターは、学校そっちのけで、フルートに夢中になり、13歳の時、「ティオガワルツ」という曲を作りました。

ティオガ・ワルツ The Tioga Waltz

フォスターが15歳の時、父親の勧めで寄宿制のジェファーソン大学に入学しましたが、フォスターは間もなく家に戻り、父親に、音楽家になることを打ち明けます。

このころになると、父ウィリアムの仕事が回復し、フォスター家の家計は不自由ないものになっていました。

家のイラスト

ところで、フォスター家の近くに、フォスターを兄のように慕う少女がいました。スーザン・ペントランドといいます。スーザンは、まだ、11歳、フォスターにピアノを聞かせてもらいかったのでした。

16歳のフォスターがこのスーザンのために作曲したのが、「恋人よ窓を開け」です。

恋人よ窓を開け  ⇒  歌詞掲載ページ Open Thy Lattice, Love

この後、フォスターは、クリーバーという音楽の先生に出会います。フォスターは、クリーバーから音楽を学び、これが、後の作曲活動の基礎となりました。

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